季語 日めくりエッセイ

木ノ内博道 俳句の季語に触発された日々の想い

接木(つぎき)・挿木(さしき)

実家には、低いところで二枝に別れた柿の木があった。片方には甘い柿が実り、もう片方には渋柿がなる。見るからに接ぎ木した柿の木である。私は子どもの頃、学校から帰るとよくこの木に登ったものだ。遠くの水戸の街が見える。遠方を見るのが好きだった。
挿し木の思い出は母の思い出につながる。植物園などに行くとよく枝を折ってポケットに入れてしまう。犯罪には厳しい母だったから、それを犯罪とは思っていなかったのだろう。
思い出とは不思議なものである。他界した人物が思い出のなかで立ち上がる。季語とは直接関係はないのだが、昨日『人生の小春日和』(ゴールズワージー岩波文庫)を読んだ。人生の晩年におぼえた女性との愛。若い時に読んで、年取って読んだらどんなだろう、と思っていた。コロナ騒ぎで片づけものをしていてこの本を見つけて、読み始めた。こんな一文がある。「彼はまだ、老齢からくるわがままの虜にもなっていなかった。まだ他人の喜びをわが喜びとすることもできたし、いろいろと願いや望みはあったものの、それだけがすべてでないことも心得ていた」。年を取ることによって失われる能力や現れる能力が自覚されている。そして、自分がそういうものに完全に侵されていない、自省のなかでの出会いを味わっている。老齢の男の心のときめき。
そしてまた、植物というのも不思議なものだ。接ぎ木や挿し木によって、何度でも若返ることができる。
ふと齢忘れてゐたり接木して 能村登四郎