季語 日めくりエッセイ

木ノ内博道 俳句の季語に触発された日々の想い

2020-04-01から1ヶ月間の記事一覧

竹の皮脱ぐ(たけのかわぬぐ)

筍と言えば孟宗竹しか知らなかったが、昨年の梅雨の頃、真竹の筍をいただいた。土から顔を出したばかりの筍ではなくて、かなり大きくなったもの。考えてみれば、いろいろな種類の竹があって、それぞれに味わい方も異なる。竹は着物を脱ぐように、成長ととも…

代掻き(しろかき)

機械化されるまでの代掻きは重労働だった。どこの農家にも牛がいるわけではなくて、牛のいない農家はそれこそ牛のようにはいずりまわって田んぼを平らにする。獣のような労働が、しかし豊作を思いながらだと嬉しかったりする。暮れ泥む(くれなずむ)頃、田…

乗っ込み鮒(のっこみぶな)

水が温むころは鮒が産卵のために浅いところにやってくる。釣り好きにはたまらないだろう。ところが、私が子どもだった頃は、梅雨時に乗っ込み鮒がやってくる。釣るのではなく網ですくうのである。だから、乗っ込み鮒は一般に春の季語だが、私にとっては初夏…

菖蒲湯(しょうぶゆ)

5月5日の端午の節句には菖蒲湯をたてたものだ。風呂ばかりではなく、菖蒲を竹竿で屋根にも飾った。籠目と一緒だったように思う。菖蒲、なにかいわくがありそうだがよく分からない。中国では健康を祝って菖蒲酒を飲んだが、それが日本では菖蒲湯になったとか…

青麦(あおむぎ)

この季節、いろいろなものが風貌を変えていく。芽のようだった植物が成長し、青年期へと移行していく。麦は茎が太くなり、穂を準備している。背丈はまだ膝を越えたくらいだが、まもなく腰くらいに伸びるだろう。青麦には風が似合う。風が麦畑を通る時、一斉…

藤棚(ふじだな)

近くの公園は梅、桜、藤、薔薇と時間差で花を楽しむことができる。まもなく藤のシーズンである。大きな藤棚がある。恥ずかしいことだが、口をついて出てくるのは安達明の「女学生」。うすむらさきの藤棚の、という歌詞。このエッセイの原型も、きっと花の影…

葦牙(あしかび)

葦牙とは葦の若芽のこと。小川の岸に動物の牙のように生えている。それは日差しだけでなく、水や泥も温くなってきたあかし。子どもの頃、よく川釣りをした。浮きは動くのにいっこうに釣れない。小魚のうろこが川のなかで光る。春先に光るのは立派な鮒ではな…

蓬(よもぎ)

モチグサというのが田舎での呼び方だった。どこにでも生えていて、ありふれた草だった。春にはこれを摘んで草餅を搗く。秋も深くなると枯れて、子どもたちはそれを掌で揉み、もぐさを作って遊んだ。いま考えてみると危ない火遊びだった。悪いことをするとお…

鯵(あじ)

魚に3で鯵。3月の魚だが、新暦に直せば5月。そろそろ鯵の美味しい季節である。たたきにして骨や頭はカリカリに揚げてもらう。鯵のフライもいい。柔らかく、箸でも簡単にほぐすことができるくらいのフライがいい。冷凍技術の進歩した今、あまり旬を考えたこ…

山椒の芽(さんしょうのめ)

まだ4月も21日かあ、と思うのも、コロナ禍で毎日自宅にいるからだ。一向に終息に向かわないコロナ感染。来年の今頃になって、どういう思いで今頃を振り返ることになるのだろう。ときおり庭に出て、昨日は三つ葉芹を話題にしたが、今日は山椒。30年来の木で、…

三葉芹(みつばぜり)

この季節になると庭にみつばが生えてくる。庭に出て、2、3ちぎってスープに入れる。それだけでじゅうぶん満足である。香りはまさにみつば特有で、平安の世になったような気分である。スーパーに行くと、最近はセリでもみつばでも、根の部分までしっかり売…

大根の花(だいこんのはな)

近所を散歩していたら、畑一面、大根が満開という場面に出くわした。多くても畝一列くらいしか見たことがなかったので、思わず立ち止まってしまった。面白いのは、大根の3分の2くらいが土の上に出ていることだ。熱い風呂に入って、上半身を出している感じだ…

春の虹(はるのにじ)

鮮明な虹と言えば夏の虹の思い出だろうか。小学校に上がる前に自宅の廊下からみた虹。片方の虹の脚が近くの田んぼにあり、駆けて行けば登れそうだった。しかし、それは、子ども特有のリアリティだったのかも知れない。鮮明な虹の記憶はむしろ少なく、だいた…

芹(せり)

庭の畑のすみに井戸があった。水をくむことはもちろんあったが、そこに行って洗いものをすることも多かった。米を研ぐのもそこでやったのだろう。小学生の頃、学校から戻ると、井戸のところに白い研ぎ汁が流れていたものだった。そこに、芹も生えていた。も…

接木(つぎき)・挿木(さしき)

実家には、低いところで二枝に別れた柿の木があった。片方には甘い柿が実り、もう片方には渋柿がなる。見るからに接ぎ木した柿の木である。私は子どもの頃、学校から帰るとよくこの木に登ったものだ。遠くの水戸の街が見える。遠方を見るのが好きだった。挿…

花鎮め祭(はなしずめまつり)

毎年4月18日に奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社と摂社の狭井(さい)神社で行われる祭り。花の散るころに疫病が流行るので、花の霊力によって悪霊を鎮める祭りという。崇神天皇の時にはじまったというから起源は古い。京都市の今宮神社の摂社の一つである…

竹の秋(たけのあき)春筍(はるたけのこ)

先に春落葉を紹介したので、竹の秋を取り上げてみたい。竹は春に落葉するが、タケノコに栄養を与えるためだといわれている。竹の根はまるでネットワークのようだ。竹林がまるで一つの生物のようである。「竹の秋」とわざわざことわった季語になっているが、…

菜の花(なのはな)

新型コロナで緊急事態宣言。家にいるだけだとうつうつとしてくるので、江戸川沿いを散歩する。雑草のように菜の花が咲いていた。立ち止まって眺めているうちに、菜の花は一年生草花だと思いだした。正確には越年をしているから二年生草花なのだが、一回きり…

春落葉(はるおちば)

一般に落葉樹は初冬に落葉する。ところが常緑樹は晩春に落葉する。むかし、我が家の前に大きな椎の木があってこの時期には葉を落としたものだ。あわせて竹やぶもあったから、我が家の落葉の時期は春だった。椎の木はたくさんの実をつけて、その下にはトタン…

木瓜の花(ぼけのはな)

この季節になって思い出すのは、生家にあった木瓜の木。毎年、真っ赤な花をつける。庭の南側で、日差しが暖かい。そんなひとつの思い出が契機になって、まだ若かった父母や子どもの頃の兄弟などが思い起こされる。記憶に残る木瓜の赤い花から、季節とはなん…

葱坊主(ねぎぼうず)

我が家の方は新興住宅と古くからの農家が混在している。それで、アパートのそばに広大な畑があったりする。ネギ栽培が盛んである。演歌で歌われる「矢切の渡し」の矢切が近くてそこには矢切ネギというブランドもある。散歩中に、葱坊主となった畑を見つけた…

田打ち(たうち)

数日前に畔塗りを取り上げたが、春には農事にかんする季語が多い。耕、田起し、種浸し、種案山子など。農作業を機械に頼らない頃は、稲刈りがすむとすぐに田起こしをしたものだ。刈ったままにしておくとカビ田とか言われた。稲の株がまるでカビが生えたよう…

復活祭(ふっかつさい)

イエスの復活を祝う日のことで、イースターともいわれる。春分を過ぎて最初の満月の、次の日曜日。今年は4月12日。ヨーロッパではクリスマスと同じくらい盛大に祝う。日本でも商売に熱心な人たちがいろいろと仕掛けるが、あまり盛り上がらない。関東で暮らす…

花疲れ(はなづかれ)

桜の開花はいつか、あれほど話題になったのに、散るころになると話題にものぼらない。特に今年は、今日、新型コロナで緊急事態宣言がでて、みんな浮足立っている。この季節の季語に花疲れがある。あっちの桜こっちの桜と見て歩いて、やっと帰宅した。そんな…

初鰹(はつがつお)

かつおの旬は、春の初鰹と、秋の戻りがつお。春は脂身が少なくたたきがお薦め。出刃の背でたたきにする。それにしても、縄文時代に硬く干したものが貴重な調味料だったという。鰹節のルーツは古いようだ。。出刃の背を叩く拳や鰹切る 松本たかし

春の雪(はるのゆき)

桜が満開の頃、雪が降ったりする。今年も降った。春の雪、淡雪、別れ雪、忘れ雪など、春に降る雪の季語も多い。降るそばから消えていくので気にするような雪ではない。強いて言うなら、季節を感じて芽を出した雑草、穴からはい出した小動物、虫は驚いている…

雁風呂(がんぶろ)

春に、雁が帰った後、海岸の木片を集めて風呂をたてる習慣がある。雁は秋に日本にやってくるとき、海上で羽根を休めるために木片をくわえてくる。帰るときにも木片をくわえて帰る。だから、残された木片は、帰れないで死んだ雁の数だという。木片を集めて風…

桜蘂降る(さくらしべふる)

満開の桜の季節が過ぎると、桜の蘂(しべ)や咢(がく)が道に落ちている。桜蘂だけでは季語ではなく、降るまでを含めて季語。それにしてもその量は大量なのだ。朝、桜の木の下を歩くと、夜の間に樹木がお祭りをやったような感じなのだ。それは桜に限らない…

塗畔(ぬりあぜ)

田植え前の作業として、鋤で畔を削り、田の泥で畔を塗っていく。雑草の芽が出たところに泥が塗られて、てかてかと光っている。数日すると新芽の方が元気で、塗られた泥を突き破って出てくるのだが。人それぞれ、さまざまな思い出があるだろうが、わたし的に…

鞦韆(しゅうせん・ふらここ)

ブランコのことである。それにしても謎だらけである。どうしてブランコが春の季語なのだろうか。そもそも何語なのだろう。調べていくと、鞦韆は中国では性的な遊びだったとか。宮女が乗って裾から素足がのぞく。それを皇帝がみて夜伽に誘う。ブランコは子ど…